気づけることとは、見える世界が変わることである・・・?

6月12日は日記の日だったのか・・・
と、ここで日記を初めて1ヵ月も経たないのに、
日記の日にエントリーし損ねてしまうとは、
お祭り騒ぎが好きな性分の自分は少し残念です。
「そもそも日記とは」なんていう、かしこまった話でも書きたかったな。

そんな昨夜は、読書をしておりました。

ヨオロッパの世紀末 (岩波文庫)

ヨオロッパの世紀末 (岩波文庫)

読了。

私は中学生くらいの頃から、パリコレの映像を見たりするのが大好きなのですが
一つ疑問がありました。

仮に営利目的を100%排除したとして、なぜデザイナーの作品やファッションの流行に時代回顧があるのだろう?
と。

もともと吉田健一さんの文章(特に小説)が大好きなのですが、
その答えを上記の一冊から見出したような気になってしまいました。
ヨーロッパの19世紀末にも黄昏があったのだと、彼は述べています。
その一文を読んだとき「20世紀末のモードも同じかも!」などとかなり勝手に自分の中で盛り上がってしまいました。

もちろん素直に読んでも、吉田健一さんの視線はあたたかく、作品は読中・読後ともに心地よいです。
同時に、洋の東西を問わず、もっと美術や芸術について勉強したいな、と自分の知識不足を感じさせられました。


大学をとうに卒業してしまってから、
美術史の本をにやにやしながら眺めるのが趣味になってしまいました。

学生のころ・・・というより、最近まで

  • 知識としての美術教育より作品を肌で感じたものが一番!
  • 年号、主義・流派など無用!
  • 創り手も鑑賞者も、学問としての美術・芸術からは自由!

etc.

と、わりと本気で思っちゃっていました・・・(果てしなく苦笑い)
自分の中の鑑賞体験や創作過程での体験が主観的すぎるというか、独善的なものだったな・・・
ということに、なかなか気づけなかったのです。

明確に気づけたきっかけがあったかと言えば、
今はまだあまりよく分からないのですが、
まぁ、気づけただけよかったかなと思います。

流行のメイクやファッションにお金を投じてきた人たちが
経済的にも肉体的にも精神的にも疲れはてたのか、
近ごろ「大切なのは人間の内面!」と声高に主張し、される流れをじわりと感じています。

「美しい心とは」なんて定義や流行が一義的になったらいやだなぁ・・・なんて杞憂がよぎります。