現代美術の存在意義を考える

今日のぶら美は軽井沢のセゾン現代美術館

番組のスポットで流れるたびに気になっていた、
安田侃さんの作品にTV越しながらインスピレーションが湧く、湧く!
現代の彫刻作品のいいところは、一緒に戯れることができるところだと思う。

私の小学校の卒業アルバムに印象的な写真があって、
何人かの男の子たちが作品に身をあずけて、ほぼ同じポーズを取っている。
それが作品そのものの生み出す幾何学性や規則性とマッチしていて、
子供でも作品に魂がちゃんとあることが分かるんだな、
ということが今でも分かる写真だ。

今日の登場はカディンスキー、クレ、クライン、ロスコ、
デュシャン、彼の弟子であったジャスパー・ジョーンズ横尾忠則etc.


今日もぶら美の放映を楽しんだ後にお風呂へ入り、作品を反芻して愉しむ。
ところが、クラインもロスコもデュシャンも、
放送を観たときはとてもいいなぁと感じられた。
それにも関わらず、作品が放つオーラのようなものを思い出そうとすると、
うまく頭にも心にも浮かばない。

鑑賞ノートにも「夏。いや、どの季節でもない。」
「涼しく、切なく、爽やか」(クライン)
「こんな作品は二度と描けないと思ったのかも。
 ロスコ自身、作品を誰にも譲りたがらなかったのがわかる」(ロスコ)
と”現代アートの巨匠”と紹介されても、とっても身近で
作品がまるで身近な誰かが創ったように感じた自分がいる。

心に残るのが、作品とコミュニケートした結果に残った「感情」だけで、
「存在」としての作品を想起できない。

現代美術と呼ばれるものを創り出した芸術家たちのスピリットが
それ以前の芸術家に劣るとは思わない。
ただ、
彼らは画材・写真術・映像技術が氾濫する時代と共に生き、
創作しなければならないところが
現代美術以前のものと本質的に異なると思う。

知覚したものとして局面では鑑賞者の心に残っても、その持続時間は短い。
作品そのものについては創作者にしか分かり得ない部分もあるが、
鑑賞体験として残るのが”実態としての作品”ではなく、
鑑賞行為による創作者と作品、鑑賞者の間の”コミュニケーションの余韻”なのだ。
その余韻が、私のなかではまだ弱くはかない。

創作者―鑑賞者として関わることの出来た私たちが、
現代に生きる者同士ゆえインスタントな”余韻”しか残らないとすれば、
創作者は、現代の電子媒体ベースの
コミュニケーションの後に残るコミュニケーションのあり方を直感したのでは?
とさえ邪推してしまう。

それが現代の「優れた感性」なのだと専門家が感じ、
コレクターが感じ、人々が思うなら
そのどの人たちも、(乱暴な表現をすると)孤独だな、と感じてしまう。
そしてそれは、(安易な発想だとは自分でも思うが)
アート・マーケットに起因するところがあるのではないか?と考えてしまう。

皮肉なことに、お風呂からあがると母が某骨董品鑑定番組を観ていて、
こんな話をした。
「価値がわからないなら、買わなきゃいいのにね」
「価値がわかるふりをしたいのでしょう?
きっと作品の価値がわかり、投資する自分に酔ってるんだよ。滑稽だよね」
(抜粋)

しばしば頭でっかちで技術が追いついていないと揶揄される現代美術。
作品をつくる技術に投資する人、作品を守る技術や環境づくりに身を砕く人、
作品に魂をそそぎ創作する人、それらを教育する人、
美術・芸術教育のあり方そのものを考え続ける人etc.

そんな現代美術の人的資源まで、
お金で搾取してしまう人がいることに怒りを感じるのは簡単で
私も書きながら少しばかり憤りを感じる。

たとえ残るものが”余韻”だというインスタントな作品が現代美術だとしても、
美術の火を灯し続けること。

それが現代美術なのかもしれない。