谷文晁展が教えてくれた、鑑賞体験と制作の矛盾

今週のぶら美のおさらいをしておかなければ。

私がひっかかったのは、
谷文晁が松平定信のお抱え絵師であったこと。

それを「今でいえば公務員」と解説されていて、
その半生は多種多様な技法、画風を残した多作な人だったが
最晩年の作品を観た五郎さんは
「本当に好きなものをようやく描いた」と評した。

そして、
「この人、いい人生だったね」とも。

私は美術館では、ササッと観てしまう。
それでも目に留まる作品の前にずっと立っている。
否、立たせられる何かに惹かれてじっと作品と向き合う。

すごくよく覚えているのが、ピカソ
ピカソにはよく向き合った。
青の時代の青の色にも、牛をモチーフにした絵皿でもそうだ。
じっと観る機会が少なかったから、じっくり向き合った作品とは
まるで時間が流れる様子さえ分かる気がするくらい、
大きな鑑賞体験として作品が放つ存在感のようなものまで覚えている。

(だから、美術展をストーリー自立てに観られる人が少し羨ましい。)

そのせいか、自分の作品にも
「観てみたら・・・なにこれ?」と立ち止まらせる力のようなものを求めている部分もあるようだ。

自分の作品を人に見せるとき、
(これは本当に傲慢な発想なのだけど)
自分の人生なんかより作品そのものの世界観に飲み込まれてしまえ!と思っているところがある。

でも、鑑賞体験を通して
作品の奥にある製作者の人生や表情、仕草、声、人物像まで
追っている自分もいることに気づかされる。

作品を見せることは、自分の人生をまるごと提示することなのだろうか?

経験から言って、絵画ではそれが可能な気がする。
見えなくてもいいところ、撮影者の視界には入っていても
注目していない部分まできれいに写ってしまう
写真というものの特性を捉え直す必要があるようだ。

自分の人生を提示できるような作品を創れるって、
それも大きな幸せだなぁ・・・
と思うのでした。